2016年9月24日土曜日

書評:荻原 隆『日本における保守主義はいかにして可能か―志賀重昂を例に』

 本書は、志賀重昂の思想を通して、平和主義を日本の伝統として捉え、それを日本の保守主義の核として展開しようとする。

 平和主義が日本の伝統というと、多くの人は意外に思うかもしれない。私もそうであった。今日的な意味での平和主義とは、憲法9条に象徴されるような反戦、非武装であり、保守主義者達からは目の敵にされている。

 本書でいう平和主義とは、上記の意味ではない。それは、日本民族の穏やかさ、優しさ、温和さといった言葉に表現される平和主義である。

 日本の国土の温和な気候、民族の興亡を経験しなかったこと、農耕民族としての性質に由来するこの平和主義を、日本の伝統として捉えようというのである。そして、その萌芽を志賀重昂に見出す。

 日本の伝統としての平和主義。はじめは面を食らったが、言われてみると、なるほどという気もしなくはない。「太古の縄文時代の平和、あるいはそれはしばらく置くとしても、古代が比較的平和であったこと、建国の過程も諸外国ほど戦争や征服一辺倒ではなく、話し合い・妥協があったと考えられること、他民族の侵攻を受けることや人種・民族・宗教宗派に絡む極端に血塗られた絶滅戦争のような経験がほとんどなかったこと、そして、平安時代初期の平和、江戸時代における二五〇年にわたる平和、戦後の社会がその平和性、安定性、協調性において世界にほとんど比類がないこと」も、日本人の穏やかさ、平和性、温和性の証左ともいえる。

 平和主義を日本の保守主義の中心に位置づけることは、筆者の言うように、日本の保守主義を高い普遍性を持つものにする可能性を秘めている。それは、国内の左派勢力を含め、万人から支持を得られる保守主義、また、イギリスの議会制民主主義のように世界に対しても誇れるような保守主義へと昇華させることを意味する。少なくとも、とかく硬直化しつつあるいまの保守主義にとって、新たな視点を提供し、日本の保守主義をより豊かなものにすることは間違いないだろう。

 しかし、日本の伝統としての平和主義に疑義がないわけではない。

 まず、日本民族の平和性というのは、感覚的には理解できるが、それを論証することなど、果たしてできるのだろうか。日本の歴史・風土から推論することはできるだろうが、統計などを用いた実証的な論証は困難であるように思われる。

 また、平和主義といっても、具体的には一体何を保守するのか。以前取り上げた仲正氏の著書では「制度」の話に言及があったが、日本の平和主義を体現する制度・規範とはどのようなものなのだろうか。
 筆者自身も、規範の構築を説き、単なる国家あるいは国家間の平和だけではなく、自然との平和、共存共栄を考えるとよいと述べているが、具体的な制度・規範の中身までは言及されていない。
 思い浮かぶものといえば、「以和為貴」で有名な、飛鳥時代の十七条憲法だが、その精神を換骨奪胎し、現代的な規範を構築するのだろうか。あるいは、下手をすると、憲法前文や9条(殊に第1項)の精神こそ、日本の伝統だというような議論になりかねない。いずれにせよ、日本人の平和的気質を制度・規範として具体化することは、容易ではないだろう。



(坂木)

2015年1月24日土曜日

書評:仲正 昌樹『精神論ぬきの保守主義』

 本書は、筆者が言うところの「制度的保守主義」(=慣習的に形成される「制度」の重要性に着目する思想)の思想家―ヒューム、バーク、トクヴィル、バジョット、シュミット、ハイエク―を紹介するものである。

 本書で注目すべきところは、本書で言及されている思想家の思想そのものよりも、そうした「制度的保守主義」の思想を受けて、現代の日本における保守主義に対する筆者の所見であろう。ここでは、それに対する管見を述べたい。

①何を保守するのか

 西欧と違い、日本において制度論的な保守主義思想を展開することはかなり困難である。日本の保守論客が、制度よりも、日本人の精神の在り方を論じることに力を入れるのは、天皇制を除いて守っていくべき制度がなかなか見当たらないからだ。そのように筆者は言う。

 鋭い指摘であるように思うし、私の問題意識と重なるところがある。「日本人の精神の在り方」を論じることも必要だが、そうした議論は往々にして抽象的になりがちだ法・政治的制度に限らず、具体的に何を保守するのか、この議論を怠ってはならない。

 ただし、日本の保守派が制度に全く関心がないというような理解は正しくない。考えられる例として、家族制度が挙げられる。2013年に、民法の婚外子の相続規定に対して違憲判決が出た際には、保守論客から反対意見が相次いだ。彼らにとっては、家族制度と、その一翼を担う民法900条の婚外子規定は、保守すべき制度といえるだろう。

②憲法改正の問題

 さらに筆者は、制度的保守主義にとって最も重要な問題として憲法改正について言及する。自民党の改憲案を引き合いに出して、言葉遣いの変更だけにとどまった中途半端な改正案だとし、制度的保守主義の考えに沿って、さほど大きく変えるつもりがないのなら、放っておく方がよいと述べる。また、9条については、自衛隊の憲法上の位置づけをめぐる曖昧さに論点を絞った上で、保守派は、そうした「曖昧さ」がもたらしてきた恩恵にもっと目を向けてもよいのではないかとする。

 この意見には賛同しかねる。確かに筆者が言うように、「曖昧さ」があったからこそ、戦後我が国が戦争に巻き込まれなかったという面があるのは否定できない。しかし、筆者自身が認めるように、「曖昧さゆえの利点がそのまま維持されるという保証はない」のである。昨今話題になった集団的自衛権の問題など、現行憲法では、現在の安全保障を取り巻く環境に対応できないところがある。やはり9条をそのまま放置することは賢明とは思われない。

 また憲法改正そのものについて、法・政治的制度を含めて、何を保守するのかということを検証するためにも、日本人自身の手によって憲法をつくることには、一定の意義があると考える。

 一方で、筆者の次のような警句には耳を傾けるべきだろう。
憲法や法律に、「国を愛する心」を培うことをスローガン的に掲げることによって、“日本らしさ”を回復できると考えているとすれば、それは、保守というよりはむしろ、自分たちの青写真を元に社会を改造しようとする設計主義の発想だろう。
  確かに憲法改正を実現さえすれば、我々の心や社会が劇的に変化するわけではない。しかしながら、だからといって、憲法改正は無意味だというようなニヒリズムに陥ってはならない。また、付言するならば、保守主義は、今ある制度を守りさえすればよいというわけではなく―それは単なる現状肯定主義である―、時として「保守するための改革」は認められるべきであろう。重要なのは、現実を顧みる柔軟さだと思う。保守すべきものに関するビジョンは必要だし、それに基づいて社会、制度、法などを変えていこうとする試みが、直ちに設計主義として批判されるべきではない。しかし、そうした理想は、現実を反映した、あるいは、現実に即して随時調整されるべきものである。自らの理想通りに現実を変えることができると過信し、是が非でも現実を理想通りに変えようとするとき、設計主義の陥穽にはまる。

(坂木)

2014年10月25日土曜日

書評:中島岳志『「リベラル保守」宣言』

 本書は、保守思想の解説を交えながら、原発問題や橋下・維新の会など、具体的なテーマについて筆者の意見を述べている。全体としては彼の意見には概ね賛同できるのだが、ここでは私が違和感を覚えた点について論じたい。

 ①改革をめぐる姿勢

 第1章「保守のエッセンス」では、文字通り保守主義思想を構成する要素について解説を行っている。この解説は、平易な言葉でわかりやすく書かれているし、従前の保守主義思想研究と照らし合わせてみても妥当であるように思う。

 ここで気になったのは、彼の”保守原理主義”的ともとれる態度である。それは、改革に対する姿勢にみることができる。筆者は、「『保守するための改革』は、常に歴史感覚に基づいた漸進的存在でしかあり得ません」と述べる。確かに保守主義は、漸進的改革を志向する。しかし、漸進的改革しか認めないという姿勢はどうだろうか。筆者は別の紙面でも次のように述べている。

 保守するための改革、永遠の微調整というのを積極的に受け入れるのが、保守の考え方です。

 ところが安倍政権は世論の反対を押し切り成立させた特定秘密保護法の決定過程からも明らかなように、大きな変革を上から断行しようとする。自分と立場の違う人たちの言葉に耳を傾けるのではなく、自分にとって都合のいい人たちの言うことだけを聞いて、独断的に物事を進めていく。

(中略)

結論は一歩一歩で地味ですが、漸進的前進こそが保守思想の根本。だから僕は、永遠の微調整しか信じません。

(神奈川新聞)

 繰り返すが、保守主義は漸進的改革を目指すべきである。そのことに異存はない。しかしながら、同時に、漸進的改革しか認めないという、いわば保守原理主義的な姿勢も、「極端なもの」を嫌う保守主義の思想からかけ離れたものである。しかも、政治というものはそう単純なものではない。いくら対話をしても同意を得ることができないときには、結局「上から断行」することになる。さまざまな要因により、漸進的改革がままならないこともある。複雑な政治の営みの中で、漸進的改革しか認めないというのは、あまりに偏狭すぎやしないだろうか。

 ②原発の問題

 次に気になったのは、原発の問題である。筆者は第2章で、次のような理由から、脱原発を漸進させていくべきだと主張する。

 原発事故は広大な国土を台無しにし、そこで歴史的に積み重ねてきた先祖の英智を根源的に破壊します。長年の間、有名無名の日本人によって継承されてきた伝統や慣習が、一瞬にして消滅の危機にさらされます。保守派であれば、そのような事態を全力で阻止し、命を懸けてでも死守しようとするはずです。

 この意見を完全に否定するつもりはない。しかしながら、ここにも保守原理主義的な、過度の理想主義を感じずにはいられない。確かに保守主義思想から上記のような主張が出てきても不思議ではないが、保守主義者であるならば、原発が日本に導入された歴史にも目を向けるべきではないのか。また、現在でも原発停止によって電気料金が高騰しており、産業や国民生活にも影響を与えている。そうしたことを考慮せずに、ただ保守の信念から脱原発を主張するのは、同じく理想のみで現実を顧みない左派の手口と変わらない。

 「靖国に参拝すれば保守」とか「憲法改正に賛成なら保守」など、安易なレッテル張りが横行する中で、保守主義の思想的な定義付け、あるいはそのエッセンスの抽出が重要なことは間違いない。しかしそれが行き過ぎると、今度はその定義を基に、硬直したレッテル張りが跋扈するようになるのではないかと私は危惧する。保守主義(者)はこうでなければならないという原理主義的態度こそ、保守主義が最も忌み嫌うものであることを我々は肝に銘じなければならない。

(坂木)

2014年8月11日月曜日

書評:『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』(白川 俊介)

 今年5月に行われた欧州議会選挙の結果は、日本でも大いに話題になったように思う。EUに懐疑的な勢力が躍進したことは欧州のみならず、世界に少なからぬ衝撃を与えた。自由、民主主義、平等、人権といったリベラルな理念の下、国家の枠組みを超えた存在として影響力を拡大してきたEUであったが、ここにきて大きな壁にぶつかったといっていいだろう。グローバリゼーションの中で国境の消滅が言われて久しいが、比較的同質な文化的素地をもつ欧州ですら、この有様である。国家という枠組みが解体される日はまだまだ先のようだ。
 
 このような中で、リベラル・ナショナリズムの思想は改めて注目されて然るべきだと考える。リベラル・ナショナリズムとは、自由や平等、民主主義といったリベラルな諸価値を支える基盤としてナショナルな共同体の持つ文化的文脈、連帯意識を重視する思想である。リベラル・ナショナリズムに関する詳しい解説は本書を参照していただくとして、本稿では、私的に重要と思われる点について論じたい。

■民主主義について
 
 リベラリズムにとって民主主義は重要な価値である。そしてそれは、究極的には、国民国家を越境し、あらゆる人に対話や熟議が開かれている「普遍的コミュニケーション共同体」あるいは「対話的コスモポリタニズム」を志向するものである。そこでは、さまざまな差異を有する他者が自由にコミュニケーションに参加できる。こうした構想は、一見すると非排除的であり望ましいように見える。
 
 しかしかながら、筆者はこうした「普遍的コミュニケーション共同体」に疑問を呈する。それは、コミュニケーションや熟議は一体どんな言語で行われるのかということに他ならない。これは素朴な疑問であるが、極めて本質を突いた指摘であるように思う。「普遍的コミュニケーション共同体」では何らかの共通語(主に英語)で熟議が行われるのだろうが、そもそもその共通語を話すことのできない者は「普遍的コミュニケーション共同体」から排除されるのである。

 また、筆者が言うように、理性的な熟議によって合意が成立するのは、熟議の参加者がお互いのことを理解し、信頼している場合であり、そのためには共同性が必要である。その共同性の基盤になるのが、あらゆる社会的実践や制度の背景にある伝統と慣習を含む「社会構成文化」であり、それは多くの場合、「ナショナルな文化」と重なる。そしてその「社会構成文化」は共有された言語を基盤とする。

 私の理解では、もっとわかりやすく説明すると次のようになる。熟議というのは―よほどのエリートでない限り―ふつうの人間にとっては母語以外で行うのは難しい。なぜならば、語彙的な問題ももちろんあるが、言葉の言い回しや使い方、それぞれの語のもつ微妙なニュアンスの違いなどを外国語において理解するのは多大な労力と困難が伴うからだ。そして、そうした言葉の持つ語感や意味合いを理解するということは、取りも直さずその言語を話す人々の間に共有される文化的文脈を理解することを意味するのである。

■社会正義の問題

 社会正義とその具現化たる再配分政策、それを含む社会保障制度が安定して持続的に機能するためには、ある程度まとまった大きさの社会が必要であり、その社会において制度を下支えする「社会的連帯」が必要である。そして、そうした「社会的連帯」は、事実上ナショナルなレベルにおける連帯であった。

 その一方でポスト福祉国家の時代においては、ナショナルな共同性に基づく連帯ではなく、「民主的な公共性」によって支えられる連帯―熟議民主主義による連帯―が求められるという。

 しかしながら、筆者は、ナショナリティが社会的連帯の源泉であることを強調する。前述したように、熟議が成立するためには、ナショナルな共同性を必要とする。ナショナルな共同体においては、そこに所属する人々の間に公共文化―ある人間集団がどのようにして共に生活を営んでいくかに関する一連の理解―が共有されているため、互いを文化的に同質な仲間であると認識し、生活の多様な場面で継続的に協力し合い、社会を共同でつくっていこうと考えるのである。したがって、社会正義やその具現化である再配分政策はナショナルな政治単位でこそ最もよく実現されるのである。


 以上、長々と説明してきたが、私が強調したいことは、リベラルな諸価値の実現を目指すのであれば、個々のナショナルな枠組みが、それぞれの枠内において、リベラルな価値を実践していくことが望ましいし、現実的な選択肢であるということだ。無論、ネイションという枠組みが万能だと言うつもりはないし、リベラル・ナショナリズムに対する反論も当然あるだろう(ただし、そうした反論に対する応答も本書には記述されている)。しかしながら現実には、ネイションはなくならないどころか、冒頭で述べたように、それを志向する動きさえある。そのような中で、「普遍的コミュニケーション共同体」や「対話的コスモポリタニズム」といった議論は―理論として全く無意味とは言わないが―やはり現実味を欠いているように思う。民主主義や社会福祉といったリベラルな諸制度が今も昔もネイションという枠組みによって担保されてきたという事実を看過するべきではない。

(坂木)

2014年8月1日金曜日

「妄想狂」なのは誰か

 先日、ネット上で信じがたい記事を見つけた。『AERA』から抜粋された記事らしい。少々長いが、全文を掲載する。

 万全の備えが抑止力になる。安倍首相は、こう集団的自衛権を正当化する。でも、その言葉に説得力はない。母親たちの声なき声は、直感的に「危険」を察知している
   国の方向性が見えない中で、母親たちが子どもの将来を案じるのは、自然の流れだろう。千葉県に住む理系研究職の女性(44)は閣議決定後、「子どもたちには、自分の頭で考えて選ぶ力をつけさせたい」と、より強く思うようになったと話す。
   小学4年になる娘は1歳から英語教室に通わせた。自身の就職活動や働きながらの子育てを通して、この国で女であることの生きにくさを痛感してきたからだ。ただ、憲法改正に前のめりな安倍晋三首相の「妄想狂的なところ」に怖さを感じ、第2次安倍政権が発足した後、5歳の長男にも英語教育をほどこし始めた。いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している。
   閣議決定後、夫婦の会話は娘の中学受験の話から、集団的自衛権に変わった。政治に関する本を読み始め、少子化や高齢化についても考えをめぐらせる。
  「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ。自分の家だけで海外に逃げていいのか。ほかのお母さんたちがどんな思いなのかを知りたい」 
   元弁護士で2歳の娘がいる黒澤いつきさん(33)は昨年1月、30歳前後の弁護士仲間とともに「明日の自由を守る若手弁護士の会」を立ち上げ、共同代表を引き受けた。会員は現在、330人ほど。活発なメンバーは女性、とくに母親たちだ。今年6月には、法律用語を日常的に使う言葉に置き換えて解説した『超訳 特定秘密保護法』(岩波書店)を出版した。 
   前回総選挙で自民党が圧勝した瞬間、頭をよぎったのは生後8カ月の娘の顔だった。会の目的は、思想やイデオロギーではなく、何が起きているのか簡単な言葉やイラストで伝え、考える材料を提供することだ。カフェやレストランで憲法について学ぶ「憲法カフェ」を催し、じわじわ人気が広がりつつある。超訳本の著者の一人でもあり、この活動を始めた弁護士の太田啓子さん(38)も2児の母。やはり子どもの存在が後押ししていると、太田さんは言う。 
  「子どもがいなかったらここまでやらなかったと思う。母親になると、子どもの年齢で考える『子ども暦』が自分の中にできて、初めて50年後の社会を想像するようになります。ママたちの行動は、こうした体感に根差しているのです」

 こんな馬鹿げた記事を臆面もなく掲載するAERA編集部の頭は大丈夫かと心配になる。それとも、政権批判のためなら恥も外聞もかなぐり捨てて憚らないのか。このような三文記事にもならないようなものに論評する価値もないが、日本人の平和ボケを極端な形で象徴する記事のように思えるので、あえて取り上げたい。

 この文脈では、「理系研究職の女性」は、集団的自衛権容認によって日本が戦争に関わる危険が増大したため、海外へ避難することを検討しているようだ。しかしながら、集団的自衛権を認めていない国がほかにあるのだろうか。彼女が具体的にどこへ避難するつもりなのかは不明だが、彼女の論理に従えば、集団的自衛権を認めている別の国へ避難したところで、戦争のリスクは変わらない。むしろ、日本国内の治安は他国よりも良いので、移住によってかえって危険な状況に陥るのではないか。

 「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ」というが、いままでの日本にそうしたものがなかったということの方が異常なのだ。にもかかわわず、あたかも日本が特異な国になったかのような「妄想」に憑りつかれて慌てふためく様は、まさに平和ボケそのものである。

 そもそも、「いざというとき」というのは具体的にはどのような事態を想定しているのか。尖閣諸島付近での紛争?はたまた彼女の住む千葉県を含む首都圏への攻撃?安倍総理を「妄想狂」というが、「いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している」など、起こりもしない(蓋然性の乏しい)ことに対して病的なまでに過剰に心配する連中の方がよほど「妄想狂」に思える。

  ここに登場する女性たちは、どうも自民党政権、とりわけ安倍政権に対して尋常ならざる危機感を覚えているようだが、他の政党―例えば民主党―が政権をとれば安心するのだろうか。民主党が与党の座にあったときには何も感じなかったのだろうか。もしそうだとすれば、彼女たちの直感というのは、全くあてにならない。

(坂木)

2014年7月6日日曜日

「戦争のできる国」で何が悪い

 挑発的なタイトルをつけたが、何も突飛なことを言うつもりはない。至極真っ当なことを述べたい。

 集団的自衛権容認が閣議決定された。メディアや左派勢力は「戦争のできる国」に近づいたと相も変わらぬ批判を繰り返している。しかし、当たり前の話だが、「戦争のできる国」と「戦争をする国」は違う。戦争のできる国が直ちに戦争を始めているわけではないことは論を俟たない。同様に、集団的自衛権を容認したからといって、実際にそれがすぐに行使されることにはならないのである。

 集団的自衛権容認によって日本が「戦争のできる国」に近づくということ自体は否定しないが、だからといって、それによって自衛隊が海外の戦地へと赴き戦争をするようになるというのは飛躍が過ぎるだろう。にもかかわらず、左翼の連中は何でも彼んでもすぐに戦争に結び付けたがる。もしかすると、心の底で誰よりも戦争を渇望しているのは彼らの方ではないのか。

 以前にも述べた通り、集団的自衛権容認は、我が国の安全保障の選択肢を広げることに繋がる。「集団的自衛権が現行憲法のもとで認められるのか。そうした抽象的・観念的な議論ではない。国民の命と暮らしを守るため、現行憲法のもとで何をなすべきかという議論だ」と首相が語ったように、必要なのは、平和のためにあらゆる手段を尽くすことだ。

 それがなぜ、我が国の身動きを封じることが平和に繋がるのか。私には彼らがなぜ集団的自衛権容認に反対するのかよくわからない。立憲主義云々という批判は手法の問題であって、集団的自衛権そのものに反対する理由にはならない。また、「戦争反対」とか「平和国家としての理念」といった批判は抽象的かつ曖昧であまり説得力がない。集団的自衛権とは他国の戦争に首を突っ込む権利だという批判もまるで筋違いである。私には、彼らが感情論的に反対しているのであって、我が国の安全保障を真剣に考えているとは思えないのである。

 すぐに「戦争が起こる」と騒いでいる左翼の皆さん、その豊かな想像力を日本の外側へと向けてはいかがか。日本を取り巻く状況がいかに危ういかが容易に理解していただけるはずだ。それとも、他国に対しては「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信じて疑わぬが、日本に対しては、武器とそれを使う環境を整えれば直ちに戦争を始める野蛮な国だという差別意識に憑りつかれているのか。

 無論、私とて戦争は御免だ。しかし、日本だけが軍事力を抑制することで世界が平和になると本気で信じるほど能天気ではない。集団的自衛権を容認することが「戦争のできる国」に近づくというのであれば、すなわち、「戦争のできる国」になることによって我が国の安全保障体制がより強固なものになるのであるならば、「戦争のできる国」で大いに結構である。

(坂木)

2014年6月22日日曜日

「平和の党」が聞いて呆れる

 集団的自衛権に関して、今国会中の閣議決定が見送られることとなった。やはり公明党の抵抗が大きいようだが、同党の牛歩戦術ともいえる態度は実に見苦しい。

 かの党が集団的自衛権に反対しているのは、自らを「平和の党」と自負しているからだといわれる。

 不思議に思うのは、集団的自衛権の容認が平和に反するものなのだろうかということと、そもそも彼らにとっての平和とは何なのかということだ。
 
 言うまでもなく、平和とは、「戦争反対」とか「九条守れ」と叫んでいれば勝手に実現するものではない。そしてそれは、まずは外交によって実現されるべきものである。しかし、外交努力にも限界はある。某国のように、武力を背景にして侵略ともとれる行動にはしる国もあることを考えれば一目瞭然である。であるならば、我が国の平和を守るために必要なあらゆる対策を講じるべきだし、以前述べたように集団的自衛権の容認は我が国の安全保障に資するものである。

 にもかかわらず、なぜ公明党は反対するのか。我が国の安全保障に係る選択肢の幅を狭めることがなぜ平和に繋がるのか、実に不可解である。まさか自衛隊の手足を縛っておけば平和が実現すると考えているわけではあるまい。それとも、彼らのいう平和とは、所詮、自らのイデオロギーの殻に閉じこもって、現に存在する平和への脅威から目を背けることなのだろうか。

 同党が野党や、戦争反対と叫んでいるだけでいい市民団体、あるいは無責任な言説を垂れ流す新聞社であるならば、そうした態度も許されよう。彼らは実際に我々国民の生命と財産を守る立場にはないからだ。だから、彼らは平和をお題目のように唱えているだけで一向に構わない。

 しかしながら、同党は与党である。平和を脅かす要素に対して考えうるありとあらゆる対策を講じることは政府の責務である。結論を先延ばしにしようという姑息な抵抗こそが、国民の生命や財産を損なうものであることを自覚するべきた。そして、それでも反対だというのなら、潔く連立政権から離脱したほうがよい。

(坂木)